こんにちはkyokotobaです
大阪に古代の日本の首都がありました
飛鳥時代と奈良時代に日本の首都または副首都として存在していたのです
難波宮といいます
大阪に住んでいる方は阪神高速の法円坂付近でその遺構を見ているのではないでしょうかただそれが難波宮跡だと知っている方はほとんどいらっしゃらないと思います
そんな日本の重要な遺跡である難波宮を紹介したいと思い二回に分けてブログ記事を書くことにしました
第一回は難波宮や大阪の歴史を紹介する施設の「大阪歴史博物館」を紹介する記事でした
そして今回は第二回目として「難波宮跡公園」を紹介します

正式には「難波宮跡附法円坂遺跡」として国指定されている遺跡なのですが、その大部分を「難波宮跡公園」として整備されているのです
「難波宮跡公園」は阪神高速によって北部ブロックと南部ブロックに分断されています
北部ブロックには「なノにわ」と呼ばれる商業施設と隣接した広大な芝生の広場が設けられていて、内裏正殿があったことを示す復元された基壇や回廊跡の表示が設けられています

南部ブロックは後期難波宮の大極殿の基壇が復元されて広大な公園として市民の憩いの場とされています
こんな大阪のど真ん中に整備された遺跡が保存されていることに驚きました
古代に大阪に実在した日本の首都の難波宮を知りたいシニアにおすすめです
「前期難波宮」
最初に難波宮の歴史について説明したいと思います
飛鳥時代と奈良時代の2回に同じ場所に都があったので区別するために飛鳥時代の難波宮を前期難波宮、そして奈良時代の難波宮を後期難波宮と呼んでいます

前期難波宮から説明します
乙巳の変(645年)は中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足が起こした事変というのは余りにも有名ですが本当の首謀者は孝徳天皇だったともいわれています
乙巳の変後に天皇に即位した孝徳天皇が651年に遷都したのが難波長柄豊崎宮、つまり前期難波宮でした
難波宮から日本という国号、元号の使用が始まったとされています
また難波宮は孝徳天皇が改新の詔を発した、まさに大化の改新が始まった重要な場所だったのです
654年に孝徳天皇が亡くなると斉明天皇によって飛鳥の飛鳥板蓋宮に遷宮されました

孝徳天皇の晩年は一人難波宮に取り残され寂しい最後を迎えたとされます
いくら立派な宮城があっても多くの貴族らは飛鳥の地が恋しかったのでしょう
683年には天武天皇が複都制の詔(副首都制)により飛鳥とともに難波を都としたのですが、残念なことに686年正月に難波宮が全焼してしまったのです
前期難波宮は34年の間存続したことになります
しかしこの全焼した遺構が発掘されたために前期難波宮が実在したことを証明されたことにもなりました
ではなぜ孝徳天皇がこの地に難波宮を造営したのでしょうか
乙巳の変による混乱から人心を一新したかったことや、海外に向けた王権の誇示、海外及び国内の流通拠点などがあったと思われます
詳しくは先にブログに書いている「シニアが知りたい難波宮①」に解説しているので興味がある方はそちらをお読みください
こちらからどうぞ
シニアが知りたい難波宮①「大阪歴史博物館」1400年前の大坂に日本の首都があったのをご存じですか? | kyokotoba blog
後期難波宮
前期難波宮が焼失したその後、726年つまり奈良時代になって同じ場所に聖武天皇によって宮殿が築かれました

このときの難波宮の位置付けは平城京の第二の都でした
海外との交流には難波宮の場所が最適だったのでしょうね
それ以降歴代の天皇は平城宮と難波宮を行ったり来たりしています
745年には聖武天皇は正式に難波宮に遷都しました
前期難波宮に続いて2回目の日本の首都になったのです
大阪歴史博物館の後期難波宮大極殿復元展示の様子

ところがすぐに紫香楽宮に遷都してしまい再び副都となってしまいました
784年に桓武天皇により長岡京に遷都した際に大極殿などの建物が長岡京に移築されたことで難波宮は無くなってしまいました
後期難波宮は58年の間存続したことになります
「難波宮跡公園」
難波宮公園には二つの時期(前期・後期)の宮殿遺構があります
飛鳥時代に孝徳天皇によって造営された前期難波宮(652年~686年)と奈良時代に聖武天皇によって造営された後期難波宮(726年~793年)です
山根徳太郎博士を中心に戦後に発掘活動が始まりました
最初に前期難波宮の遺構が見つかり1961年には聖武天皇時代の大極殿跡が発見されました

飛鳥から奈良時代にかけて前後二つの難波宮跡が確認されたことで「難波宮跡附法円坂遺跡」として宮殿の中心部とされる範囲が国の史跡に指定されました
この遺跡を史跡公園として整備したものがが「難波宮跡公園」です
「難波宮跡公園」の北部ブロックは商業施設『なノにわ』が設けられていて市民が遺構や芝⽣広場を眺めながら飲食をする場所となっています

史跡は2種類の方法で示されています
地表面より一段高くして、石造りで基壇を示すものが後期難波宮、赤いタイルを敷き、赤い御影石で柱位置を示しているのが前期難波宮の遺構となっています
このことを知っていると二つの難波宮の大きさや違いが少しわかると思います
アクセス
〒 540-0006 大阪市中央区法円坂1
電車で行くことをおすすめします

・地下鉄の場合
Osaka Metro谷町線「谷町四丁目」駅の場合
2号出口からはすぐです
・JRの場合
JR大阪環状線「森ノ宮」駅の場合
西に向かって徒歩5分です
入場料
公園なので入場料は無料です
大阪歴史博物館から難波宮跡公園へ
ブログの「シニアが知りたい難波宮①」で大阪歴史博物館を紹介しています
今回は大阪歴史博物館から出たとことから始めます

大阪歴史博物館から通りを挟んだ向かいが難波宮跡公園の北部ブロックです

大勢の観光客は大阪城に向かっているようです
交差点を渡ったところに商業施設『なノにわ』があります
商業施設『なノにわ』
難波宮跡公園の阪神高速を挟んだ北側の公園には商業施設『なノにわ』があります

『なノにわ』には飲⾷店や⾷物販売店が13 店舗営業しています
店舗やテラス席から遺構や芝⽣広場を眺めながら飲食することが出来ます

大阪城公園にも近いので大阪城の行き帰りに立ち寄る方も多いようです

難波宮跡公園北部ブロック
「なノにわ」に隣接した広大な芝生の広場が難波宮跡公園の北側区域です

広さは約3.7haとサッカーコートに例えると約5個分の面積に相当します
この区域も前期難波宮と後期難波宮が同じ場所に建っていました
その為に遺構跡を見分けるために色で区分しています
前期難波宮の遺構はレンガ色、後期難波宮の遺構は青色のタイルです

公園の中心的な遺構表示は内裏正殿跡の基壇です

内裏正殿とは宮殿の中央部にあって天皇の日常生活の場であり政務を行う場でした
基壇に登り大阪城方面を見た景色です

南側の阪神高速と難波宮跡公園南区域の後期難波宮の大極殿基壇跡を見た景色です

難波宮跡公園南部ブロックに向かいます
阪神高速が横切っているので一端大阪歴史博物館前の道路に出ます

『なノにわ』の横を通ります

公園の入り口?出口?

交差点を直進すると難波宮跡公園の入り口です

阪神高速が法円坂のところだけ高架じゃないのは何故?
阪神高速を通った方はわかると思いますが大阪城近くの法円坂に差し掛かると今まで道路は高架を走っていましたがゆっくり下って平面を走ることになります
そしてまた高架になるのです

これには2つの理由があります
一つは難波宮跡のちかに眠る遺構を傷つけないためです
高架の橋桁を作ると地下深くまで掘ることになりますから
2つ目は大阪城と難波宮跡公園の景観を妨げないよう配慮があったためです
もし阪神高速の高架があると難波宮跡公園から大阪城を見たときの景観が台無しになるのは現地を訪れると納得すると思います
難波宮跡公園南部ブロック
交差点を渡ると難波宮跡の案内板があります

難波宮跡公園は11.2haの広さがありサッカーコート16面ほどの広さがあります

前期難波宮、後期難波宮の遺構が残されています

表示板も多いので読むだけでも難波宮の様子を理解できるでしょう

平日だったので人は少なかったですが木陰で近所の人が休憩していました
都会のオアシスとして市民の憩いの場としても利用されているようです
前期難波宮の八角殿跡
前期難波宮だけに建てられていた八角殿が復元展示されています

東西に2棟建っていたとされています

八角殿は中国にもその後の藤原京、平城京などにも同様な建物はありません
何故前期難波宮だけにあるのでしょうか

理由ははっきりしていません
聖徳太子の法隆寺の夢殿も八角殿なので、それを参考に建てられたという説もあります
後期難波宮の大極殿跡
大極殿は天皇の玉座があった場所です

後期難波宮の大極殿は瓦葺きの豪華な作りでした
規模は違うけどこんな感じでしょう(平城宮跡に再現された大極殿)

大極殿跡の基壇の大きさは東西約41メートル、南北約21メートルです

大極殿跡の基壇に登ってみました

大極殿の遺構表示から見た北側の内裏正殿の遺構表示です

ARで当時の宮殿の様子を歩きながら見ることが出来ます

こんな絵がスマホに掲示されスマホを動かすと大極殿の絵も移動します
当時の壮麗な大極殿の様子が浮かび上がります

スマートフォンでQRコードを読み取れば良いだけです
公園をぐるっと散策しました

大阪は緑が少ない街と言われることが多いですが、そんな大阪で貴重な広大な公園です

遺跡と共に後世まで残して欲しいと思いました
山根徳太郎(やまね とくたろう)
最後に難波宮を発掘した中心人物の山根徳太郎山博士を紹介します
生誕は1889年1月12日でお亡くなりになったのは」1973年7月28日です
難波宮の大極殿跡を発掘した山根徳太郎は「日本のシュリーマン」と称えられている考古学者です

難波の宮は文献史料に記載されていましたが所在地が不明のままでした
大阪市立大学(当時)を退官した山根徳太郎を中心に1954年(昭和29年)に発掘調査を開始しました
しかし大阪という大都市の中心にあった遺跡の発掘は困難を極めました
1961年(昭和36年)に聖武天皇時代の大極殿跡が発見されたときには「われ、幻の大極殿を見たり」という言葉を残して喜んだとされています
遺跡の発掘だけでなく大阪のど真ん中の遺跡の保存を粘り強く働きかけて現在の広い範囲が史跡として保存されたこともその功績が評価されています
まとめ
阪神高速の車窓から見える遺構だけは知っていても、それが古代の大阪に日本の首都だった難波宮跡であることを知っている方は少ないです
前後2回に分けて難波宮を知るための大阪歴史博物館と難波宮跡を整備した難波宮跡公園を紹介しました
飛鳥時代の難波宮から大化の改新が始まったことや海外に向けた国威を示す都だったことと知れば日本の重要な都だったことが分かります
まず大阪歴史博物館で難波宮の基礎知識を知ったうえで難波宮跡公園を散策して当時の遺構を見ることでより難波宮について理解が深まると思います
大阪のど真ん中と言って良い広大な場所に古代の都跡が保存されていることに驚きます
山根徳太郎博士をはじめ関係者の粘り強い働きかけが日本の宝を残してくれたものと思います
大阪市民だけでなく多くの人に一度は訪れて欲しいと思いました
古代に大阪に実在した日本の首都の難波宮を知りたいシニアにおすすめです
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