こんにちはkyokotobaです
邪馬台国はみなさんご存じですね
『魏志』倭人伝に書かれている卑弥呼が統治した古代の日本の国です
「魏志」倭人伝とは、3世紀末(西暦200年代後半)に書かれた中国の歴史書『三国志』のうち、倭人(日本人)について書かれた部分のことを言います。
邪馬台国は日本のどこにあったのかという謎が歴史好きの興味を引き付けています
今回は邪馬台国近畿説のなかでも有力候補とされている纏向(まきむく)遺跡を訪ねました

纏向遺跡といっても範囲は広く、2009年に発掘された大型建物跡がある纏向遺跡辻地区建物群から日本最初の古墳とされている箸墓古墳などの古墳群を含めて纏向遺跡と呼びます
見どころがたくさんあるので2回に分けて記事にしたいと思います
最初はJR巻向駅から纏向古墳群と大型建物跡の纏向遺跡辻地区建物群、そして垂仁天皇纒向珠城宮跡までの遺跡巡りを案内します
2009年に発掘された大型建物跡は卑弥呼の宮殿跡ではないかと当時は報道されて大きな話題になったそうです
一度見に行きたいと思っていたのですが4月末のベストシーズンに歩いてみました
当時は多くの見学者がいて歩き回っていたと思いますが今は見学者はほぼいません
観光客はkyokotoba一人の貸し切り状態でゆっくり歩いて巡ることができました

懐かしい日本の田舎という感じの風景は時間がゆっくり過ぎる感じがしてハイキングコースとしても歩いて欲しい場所だと思いました
邪馬台国とヤマト王権に興味があるシニアにおすすめです
纏向遺跡とは
纏向遺跡についてご存じない方に簡単に概要を説明しますね
纒向遺跡は奈盆地の南東部、桜井市の北西の三輪山・巻向山の西麓にあります

2009年にここで発掘された大型建物跡が卑弥呼の宮殿跡かと報道され大きな話題になりました
ここから邪馬台国纏向説が一気に広まったとされています
纏向遺跡の活動時期は3世紀前半から4世紀はじめ頃までと言われています
卑弥呼が亡くなったのは247年とされているので卑弥呼の生きた時代と同時期にあった巨大遺跡と巨大古墳の存在が邪馬台国纏向説を有力にしている理由です
一般に纏向遺跡と言えば纏向遺跡辻地区建物群を想像する方が多いのではないでしょうか
ところが範囲は広いのです
JR巻向駅を中心に東西約2km、南北約1.5kmと広い範囲で大型建物跡の纏向遺跡辻地区建物群や日本で最初の前方後円墳と言われている箸墓古墳と纒向古墳群が含まれているのです

邪馬台国かどうかはおいといても纏向遺跡はヤマト王権の発祥の地と言うのは間違いなさそうです
そういう場所だと知って歩くと興味がつきないハイキングコースになっています
纏向遺跡ウォーキングコース
今回歩いたのはJR巻向駅を出発して纏向古墳群から纏向遺跡辻地区建物群へと歩き、箸墓古墳周辺から桜井市立埋蔵文化財センターを見学してJR三輪駅までのコースです
見どころが多いので2回に分けてブログに書きたいと思います
今回はJR巻向駅から垂仁天皇纒向珠城宮跡までのコースを説明します
・巻向駅から東田大塚古墳へ

・纏向遺跡辻地区建物群から垂仁天皇纒向珠城宮跡へ

歩く距離は短く時間はそんなにかかりません
山の辺の道が近いので
JR巻向駅
纏向遺跡ウォーキングはJR巻向駅からスタートです
JR桜井線の巻向駅は単線の小さな駅です

降りる人は地元の方だけで旅行者はkyokotoba一人でした
向こうに辻地区建物跡が見えるのですが下車時は気が付きませんでした

纏向遺跡は駅のすぐ横にもあります

こちらの場所は調査跡は埋め戻されて広い空き地の状態です
有名な大型建物跡がある辻地区は別の場所にあります
東田大塚古墳に向かって道を西に進みます

左手に纏向東田大塚古墳が見えてきました

道の右には纒向小学校を取り巻くように纒向古墳群があり、左手にはその中で一つだけ南方にずれた場所にある古墳です
纏向東田大塚(ひがいだおおつか)古墳
前方後円墳で全長120m、前方部長50m、後円部径70m前後とされています
前方部が削られて残っていないので大きくは見えませんね

築造年代は箸墓古墳とほぼ同時期で250~290年頃とされ箸墓古墳に次ぐ墳大きさの古墳です
あぜ道を通って近道させていただきました

250年頃だとすると卑弥呼の墳墓の可能性もあるとされています

私有地になっているので墳丘には登ることはできませんでした

墳丘は全て盛土になっていて葺石や埴輪は無かったとのことです
当時の周りの様子は分かりませんが現在は田んぼの真ん中にポツンと建っていて大きな古墳と言うのがすぐに分かります
続いて矢塚古墳と勝山古墳に向かいます
田んぼの中は通れないので遠回りでも正式な道を歩きます

田植えの前の時期なので用水路のゴミ掃除を地域の自治会の人たちがしていました
とてものどかな田園風景で歩くだけで心が癒される思いです
纏向矢塚古墳
纏向小学校の横にあるのが纏向矢塚古墳です

全長は96mで後円部はやや東西に長い楕円形で前方部34m後円部径62mの前方後円墳です
近くには寄らず写真だけ撮りました

道沿いに北側に纏向勝山古墳があります

纏向勝山古墳
全長約115メートル、後円部径約70メートル、前方部長約45メートルの大きさです

周濠があり幅は約25メートルありました
周濠の一部がため池として残っています

葺石や埴輪は無かったそうです
築造時期は三世紀前半から後半です

現在はきれいに整備されていて車も数台なら駐車できます
纏向小学校の裏道を通って纏向石塚古墳に向かいます
纒向石塚古墳
全長96メートル、後円部径64メートル、前方部の長さ約32メートルで周濠幅約20メートルの古墳です
後円部の丘は戦時中に高射砲を設置したために削られています

纏向石塚古墳は纏向遺跡内の古墳では最古の古墳の可能性があります
前方後円墳成立期の古墳としても注目されている重要な古墳です

周濠跡は墳丘から一段低いところと思います


ローソンがある交差点を渡りそのまま東に向かいます

県営住宅団地の中を道が通っています

県営住宅団地を抜けると辻地区建物跡への入り口がありました

纏向遺跡辻地区建物群
今日のウォーキングの目玉が辻地区建物跡です
テレビや雑誌によく写真が載っています

纏向遺跡というと辻地区の大型建物跡のことを想像する方が多いと思います
でも先に述べましたが纏向遺跡は後で訪問する箸墓古墳までを含んだ広い土地に点在する史跡全体をさしているのです
纒向遺跡は3世紀前後から4世紀前半の約100数十年間営まれたと推定されていますが、卑弥呼の宮殿ではないかと言われる建物群跡は3世紀前半に建てられ3世紀の中頃には移転したことが判明しています
移転先は後で訪れる垂仁天皇の纒向珠城宮の跡や珠城山古墳群がある地域らしいです
辻地区建物群のすぐ傍をJR桜井線の線路が走っています
巻向駅のホームが目の前にあります

電車からも建物跡は見えると思います
建物の柱を復元展示しています
横から見た全体像

建物は大中小の3つあります
一番大きい建物D


真ん中の建物C


一番小さい建物B


3つ並んだ大型建物はこんな形をしていたと推定されています
桜井市観光ボランティアガイドの会HPより

ただ大型建物と言っても普通の民家くらいなのであまり期待して行っても「えっこんなに小さいの?」になるかもしれません
しかし3世紀前半つまり弥生時代末期の建物と思えば立派です
パンフレットが置いてありました

卑弥呼の宮殿跡かどうかはともかく3世紀初めに日本で一番大きな建物があったことは間違いありません
色々な想像を掻き立てる遺跡なので是非一度は訪れることをおすすめします
つぎは大型建物跡からJRの踏切を渡って東(山側)に向かって道を進みます

穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)の一の鳥居が目印です

そのまま東に進むと道の左側に垂仁天皇纒向珠城宮跡の碑がありました

その横の丘のように見えるのが珠城山古墳群です
垂仁天皇纒向珠城宮(マキムクタマキノミヤ)跡
日本書紀に書かれている第11代垂仁天皇の纒向珠城宮の跡とされています
石碑が建つだけで特に遺跡のようなものはありません

垂仁天皇は実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半ごろの大王と推定されています
『日本書紀』では即位99年に140歳で崩御したと書かれているので信憑性が問われていますが年齢はともかく実在はしたのではないかとされています
しばらく歩くと珠城山古墳群があります

3基の古墳が縦に並んでいる珍しい作りです
最初の珠城山3号墳に登ってみました


箸墓古墳や纏向が良く見えました

この道を更に進むと以前歩いた山の辺の道と交差します

更に進むと第12代景行天皇が営んだ宮とされている纒向日代宮(マキムクヒシロノミヤ)伝承地や相撲神社や穴師坐兵主神社があるのですが訪れるのはまたの機会として道を引き返して箸墓古墳に向かいます
今回はここまでとします
次回は纏向遺跡のウォーキングのもう一つの目的である箸墓古墳を紹介しますので楽しみにお待ちください
纏向遺跡②の箸墓古墳ブログはこちらからどうぞ
シニアが行きたい卑弥呼の墳墓?纏向(まきむく)遺跡②日本最初の前方後円墳「箸墓古墳」を訪ねます | kyokotoba blog
まとめ
卑弥呼の宮ではないかとされている纏向遺跡の大型建物群跡を中心に纏向古墳群を歩きました
歩いてみると奈良盆地の真ん中ではありませんが開けた平らな場所だなという印象でした
それでも山からの緩やかな傾斜地で他の場所より少し高い場所だったのでしょう
外敵から守ることを想定していない立地だと感じました
すでに王権が安定した時代だったのでしょうか?
大型建物跡の近くに古墳群があることから政治の中心、権力の中心だったことは間違いないと思います
考古学的には卑弥呼が生きた年代と纏向遺跡は合致しているので邪馬台国纏向説が多くなっているようですがkyokotobaは疑問を持っています
日本書紀には第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇、第12代景行天皇の都が纒向遺跡付近にあったと伝えられています
日本書紀に書かれている第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇、第12代景行天皇の年代はもっと古いのですが実在すれば現在では3世紀から4世紀ころではないかと推定されています
纏向遺跡の年代と合致するのでこれらの天皇との関係はどうなるのでしょうか?
山側に各天皇の宮跡の碑がありましたが纏向遺跡の大型建物跡がこの中の天皇の宮跡かも知れません
卑弥呼の宮=纏向遺跡説はまだまだ解決する課題が多いと思います
そんなことを考えながら自分の目と足でゆっくり歩いてはいかがでしょうか
邪馬台国とヤマト王権に興味があるシニアにおすすめです
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