こんにちはkyokotobaです
今回は謎が多い継体天皇の四つの宮を巡ってきたお話です
正確には三番目の弟国宮(おとくにのみや)は場所が分かっていないので訪れてはいませんので弟国宮は説明だけになります
真の継体天皇と言われている今城塚古墳の記事をblogにUPしたのですが、そこでも謎が多い天皇として紹介しています
継体天皇は皇室とは薄い縁しかない越前国(近江国とも)の地方豪族でした
何度も即位を辞退していたのですが大伴金村らのたび重なる説得を受けて即位した地が樟葉宮でした

507年に即位しましたがなんとその時すでに58歳だったと言われています
そしてヤマトの地に宮を遷すまでに20年かかっているのです
こんな変遷でした
最初の宮 樟葉宮(くずはのみや)(507-511)
第二の都 山城筒城宮(つつきのみや)(511-518)
第三の都 弟国宮(おとくにのみや)(518-526)
最後の宮 磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)(526-531)

今回は最初の宮である樟葉宮伝承地を中心に実際訪れた弟国宮と磐余玉穂宮を紹介します
訪れた日は前後しますがご了承ください
継体天皇の謎を知りたい方は継体天皇に関わりある史跡を訪問するのも一層興味が湧くと思います
興味ある方は最後までお付き合いください
継体天皇
継体天皇についてあまりご存じない方に簡単に継体天皇について説明しますね
第26代天皇です
色々謎が多いとされる天皇ですが実在が確かで子孫が現皇室に繋がっていることに異存がない天皇であることは間違いありません
506年に第25代武烈天皇が崩御したのですが後継者がいませんでした
当時のヤマトの有力な豪族である大伴金村や物部麁鹿火などが相談の上、応神天皇の5世孫にあたり越前国(近江国とも)を治めていた男大迹王(おおどのおう)を推薦しました
何度か断ったのですが最終的に26代天皇として樟葉宮で即位しました
何分にもそれまでの皇統と血縁関係が薄かったのでその正当性を演出するために即位後に雄略天皇の孫娘の手白香皇女を皇后に迎えました
それまでの大王家に婿入りしたとも取れます
そしてそのお二人の子供が欽明天皇となるのです
継体天皇が亡くなった年は531年です
陵墓は宮内庁により太田茶臼山古墳に治定されていますが現在では今城塚古墳が真の継体天皇陵とするのが定説となっています

継体天皇の謎
具体的にはどんな謎があるのでしょうか
最大の謎はそれまでのヤマト王権との関係性です
そもそも皇位を継ぐ立場ではなかったと言えます
応神天皇の5世孫といえばもう他人のようなものですから
現に応神天皇から100年は経っています
本当に血縁関係があったのかどうか?
そして平和的に皇位を継いだのかどうか?
どうしてヤマト政権の本拠地から遠い樟葉の地に都を定めたのか?
そしてなぜ奈良盆地のヤマト王権の地に宮を遷すまで20年もかかったのか?
百済と継体天皇の関係はどうだったのか?
さらに継体天皇の死後も謎があるのです
531(継体天皇25)年に皇子の勾大兄(後の安閑天皇)に譲位した日に崩御したのですが、一説では崩御後に欽明天皇が即位したのではないかとされています
まだまだ解決するには時間がかかりそうな謎ばかりです

今回は樟葉宮を始めとする四つの宮の紹介を通して
①どうしてヤマト政権の本拠地から遠い樟葉の地に都を定めたのか?
②なぜ奈良盆地のヤマト王権の地に宮を遷すまで20年もかかったのか?
という謎を考えてみたいと思います
① 樟葉宮(くずはのみや)(507-511)
継体天皇が507年に即位したのが樟葉宮です

最初から奈良盆地のヤマトの地に入ることが出来なかったのでしょうか?
それともあえて考えがあって入らなかったのでしょうか?
そもそも大王(天皇)になる資格があるのかどうか疑わしいことは当時から分かっていたのでヤマトの豪族の中では反対者がいたと思われます
いきなりヤマトに宮を構えることはしなかったのではないでしょうか
また淀川は近江から瀬戸内海を結ぶ水路であり、淀川の近くの交野は山陽道も通っているので重要な交通の要衝であったので日本を統治するには便利な地と言えます
名より実を取ったと思えるのです
樟葉宮伝承地ウォーキングコース
樟葉宮伝承地は交野天神社という神社の境内にあります
京阪電車樟葉駅から歩いたコースです

近くに「市民の森 鏡伝池緑地」という公園があるのでそちらにも寄ってみました
樟葉宮跡伝承地と緑地をゆっくり見学しても2時間もあれば十分でしょう
すべて街中なのでスニーカーで歩けます
京阪電車樟葉駅
ずいぶん久しぶりの樟葉駅です
駅前が見違えるように立派になっていました

大きなショッピングモールの「くずはモール」の中を通って県道18号線に出ます

右に折れてまっすぐ進みます

くずはアベニュー通りとの交差点を今度は左に進みます

交野天神社の案内板がありました

左に曲がってまっすぐです
樟葉小学校の横を通ります

樟葉宮表参道商店街の看板がある三叉路を右に曲がります

すぐに交野天神社の案内板がありました

右に折れてまっすぐしばらく進むと交野天神社の鳥居が見えてきました

交野天神社(かたのあまつかみのやしろ)
樟葉宮跡伝承地は交野天神社境内の中にあります
交野天神社の呼び方は「かたのあまつかみのやしろ」です
「かたのてんじんしゃ」ではありません
天神さまというと菅原道真かと思ってしまいますよね
桓武天皇が787年に父光仁天皇を天神(あまつかみ)として祀ったのが起源とされているので「かたのあまつかみのやしろ」なのです
参道入り口の一の鳥居の前には樟葉宮跡の石碑が建っていました

参道を進むと二の鳥居があります

更に進んで道を直角に折れると三の鳥居があります

拝殿でお参りをしてきました

拝殿の奥に建つ本殿は国指定重要文化財になっています

樟葉宮跡に行くには拝殿の右側(東側)から参道が伸びているのでここを進みます

しばらく森の中の小道を歩くと樟葉宮跡伝承地の石碑が建っていました


階段を登ると貴船神社が鎮座しています

この周辺が樟葉宮跡と言われています

石碑です

この後伝承地の周りを歩いてみました

歩いて分かったのですが結構高台に位置しています
淀川や対岸を見渡せることが出来る土地です
本当にここが樟葉宮跡なのかはいろいろな説があるので確定している訳ではないようですが、ただ立地を見てみると有力候補だと思いました

樟葉駅に帰る途中に「市民の森 鏡伝池緑地」に寄ってみました

もし皆さんも樟葉宮跡伝承地を訪れるなら寄ることをおすすめします
きれいに整備されて公園です
ちょうど菖蒲の花を展示していてきれいだったです


② 山城筒城宮(つつきのみや)(511-518)
山城筒城宮伝承地
二番目の宮です
同志社大学の京田辺キャンパスに筒城宮跡碑があります
1960年に筒城宮遷都1450年を記念して「筒城宮跡顕彰会」により建立されたものです

『日本書紀』によると511年に皇居を筒城宮に遷し7年間居住したとされています
実は場所は特定できていません
この辺り(興戸・多々羅・普賢寺など)に筒城宮があったとされているのですが筒城宮に繋がる遺構の発見はありません
同志社大学京田辺キャンパスは後年にできたのでキャンパスの中に筒城宮跡碑があることになります
徒歩で行くにはJR学研都市線同志社前で下車して15分ほど歩くことになります
kyokotobaは珍しく自動車で行きました
駐車場が無いので近くのスーパーマーケットの駐車場をお借りしました
それでも15分は歩いたでしょうか

正門受付で継体天皇の筒城宮跡碑が見たいと訪問の目的を告げると通してくれました

場所は正門から直ぐそばの丘の上にありました



③ 弟国宮(おとくにのみや)(518-526)
弟国宮跡(乙訓寺)
三番目の宮です
日本書紀によると継体12(518)年から8年間居住したとされます
どこか分からないので調査中というのが正しい現状です
古事記伝には、「井乃内村、今里村の辺なり」と記されているので長岡京市の今里、井ノ内地域が有力候補考えられています
ただし弟国宮に繋がる遺構の発見はなくその正確な場所はわかっていません
今里付近ということから乙訓寺を弟国宮跡としている説もあります
石碑や説明板もないので現地に行くことはあきらめました
最近、長岡京市の井ノ内遺跡から同時期のものとみられる複数の竪穴建物跡と遺物が出土されたようなので何か進展があればいいですね
④ 磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)(526-531)
磐余玉穂宮跡
526(継体天皇20)年に最後に大和の磐余に遷都した宮です
即位して20年たってヤマトの地にやっと宮を置くことができたのです
履中天皇磐余稚桜宮跡とされる稚桜神社から西約300m離れた今は現存しませんが磐余池(いわれいけ)の南の小高い丘の上にあったと考えられています

ところが磐余池の場所が違うという説もあるのです
JR桜井駅近くにもう一つの若櫻神社が存在していてその付近に磐余池があったとする説です
そうすると磐余玉穂宮も場所が違うということになってしまいます
継体天皇の謎と言うわけではないのですが古代史にはまだまだ解明できないことが多いということですね
磐余玉穂宮跡には稚桜神社と若櫻神社を訪問したときに訪れました
近鉄電車大阪線大福駅から一本道を南下するだけなので分かりやすい場所にあると言えます
磐余池跡の説明板も設置されていました

ちょうど池の土手に説明板はあり、そこから南を見ると池があってもおかしくないように窪んだ土地になっていました
磐余玉穂宮跡は田んぼの中にあるので遠くから見るだけでした
向こうに見える少し盛り上がった土地が磐余玉穂宮跡とされています

継体天皇が磐余玉穂宮に遷都した翌年に九州で磐井の乱が起こります
鎮圧したのちは九州は大和朝廷の支配が進むことになったのです
継体天皇は大和朝廷の日本全国の統治基盤を確立した仕事ができる天皇だったと言えます
継体天皇はこの宮で晩年の5年を過ごし531(継体天皇25)年に崩御しました
まとめ
継体天皇の陵墓については別にblog記事をUPしています
興味がある方は是非ご覧ください
こちらから
シニアが行きたい真の継体天皇陵、高槻市の「今城塚古墳」ハニワ工場跡の新池遺跡など高槻市を歩きます | kyokotoba blog
継体天皇は知れば知るほど興味が湧く天皇です
日本史のキーポイントになる天皇であることは間違いないです
映画かテレビドラマ化ができるほど謎が多くてそして波乱万丈な一生だと思います
少しでも継体天皇を知りたい方は是非四つ(正確には三つ)の宮を訪れてはどうでしょうか
古代のロマンに触れることが出来ると思います
継体天皇とヤマト王権に興味があるシニアにおすすめです
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